松陰先生と40周年

12歳の頃に山口県萩で吉田松陰先生の生き方を学んだ同窓との40周年記念会に今日参加してきました。

吉田松陰先生は幕末の日本が外国勢力の圧力に直面していることを強く認識しており、日本が独立した国として存続し、世界に対抗できる強国になるためには、外国の技術や知識を取り入れる必要があると考えていました。

自らが師として教えた松下村塾の門下生である若者たちに対して、国を愛し、国のために尽くす「志士」となることを求めました。

天皇を尊び、外国勢力を排除する「尊王攘夷」の思想を広め、国家を守るための精神的な支柱としてこの考えを説きました。

この思想は、維新志士たちによって受け継がれ、明治維新の原動力となりました。

松陰先生は、単に外国の脅威に対抗するだけでなく、封建制度の中での武士道を重んじつつも、新しい時代にふさわしい国家体制を築くことを志していました。

松陰先生の思想は、江戸幕府の体制を乗り越え、新しい日本を作るための原動力となり、彼の弟子たちはその後、明治維新において重要な役割を果たしました。

一つの塾から綺羅星のように次々と志士が輩出されたことには、松陰先生の影響力の強さに驚かされましたが、40年の歳月を経た今では、その異様さがさらに何倍にもなって感じられます。

奇兵隊を結成して幕末の長州藩改革を主導し、後に倒幕運動に大きな影響を与えた高杉晋作。

明治憲法の起草に関わり、近代日本の政治体制を確立した日本初代内閣総理大臣、伊藤博文。

明治維新後は新政府の要職に就き、近代日本の基盤を整えた、長州藩の中心人物として倒幕運動を推進した木戸孝允。

攘夷運動の中心人物として活動し、蛤御門の変で命を落としましたが、その思想は維新志士たちに大きな影響を与えた久坂玄瑞。

1854年(安政元年)、松陰先生は、ペリー提督率いる黒船が再び日本に来航した際に、海外の知識や技術を学ぶために渡航を決意しました。

弟子の金子重之助と共に、浦賀に停泊中のペリーの艦隊「ポーハタン号」に密かに接近し、船に乗り込んでアメリカへ渡航することを試みたのですが、計画は失敗し江戸幕府の役人に発見され逮捕されました。

当時、江戸幕府は厳しい鎖国政策をとっており、許可なく外国に渡航することは重罪でした。

松陰先生は金子重之助と共に捕えられ、それぞれの故郷で投獄されました。

吉田松陰は1859年(安政6年)に処刑されました。享年29歳です。

その若さにも驚きでした。

「身はたとい 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

たとえ自分の体が武蔵野の野辺で朽ち果てようとも、大和魂は留め置いておきたい

松陰先生のように生きたい、と当時の少年は胸を熱くして学んでいましたが、赤熱した刀のような先生の人生と比べると、いかにぬるい生き方をしてしまったのかと恥じ入るばかりです。

幕末とは大きく異なる現代に、松陰先生だったら何を憂い、何を行動していたのでしょうか?

先生に恥ずかしくない生き方、それはつまり、12歳の少年に喜んでもらえるような生きかたを今からでも目指したいと強く思いました。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA