中米の熱帯雨林の奥に、いまも巨大な石の神殿がそびえ立っています。
ティカル、コパン、パレンケ。
かつて数万の人々が暮らし、暦を刻み、王の名を石碑に彫りつけた都市の跡です。
ところが西暦八〇〇年から九〇〇年ごろ、この南部低地の大都市が、つぎつぎと人の手を離れていきました。
巨大な建設は止まり、王の名を刻む石碑は途絶え、人口は激減しました。
私たちが「古典期マヤの崩壊」と呼ぶ出来事です。
その名前は、ある大きな誤解を招きやすいので、はじめに一つだけ確かめておきたいと思います。
「崩壊」という言葉が隠してしまうもの
英語で崩壊を意味する collapse という言葉は、ラテン語の collabi に由来します。
これは「共に(com-)」と「滑り落ちる・倒れる(labi)」が組み合わさった言葉で、もともと『複数のものが、いっしょに崩れ落ちる』という物理的な光景を指していました。
医学ではいまも、肺がしぼんで潰れる状態を「肺の collapse」と呼びます。
支えを失った屋根が、一枚の板ではなく、梁も柱も同時に落ちていく――あの重なり合った崩れ方が、この言葉の芯にある感覚です。
マヤの崩壊も、まさにこの語源どおりの出来事でした。
一つの柱が折れたのではありません。
気候、農業、政治、戦争――いくつもの支えが、同じ時期に、いっしょに滑り落ちていったのです。
ですから「崩壊」を、隕石のような一撃の大災害としてイメージすると、実像から遠ざかってしまいます。
一つの原因では説明できない
長いあいだ、この崩壊には「たった一つの犯人」が探されてきました。
なかでも近年、強力な証拠として注目されたのが干ばつです。
洞窟にできる石筍(せきじゅん)――天井から落ちる水滴が長い年月をかけて積み上げた石の柱――は、木の年輪のように、当時の雨量を一年単位で記録しています。
ベリーズのヨク・バルム洞窟の石筍や、湖底に沈んだ堆積物の分析から、九世紀の低地マヤが、過去二千年でもっとも厳しく、長く続く干ばつに見舞われていたことがわかってきました。
数年におよぶ大干ばつが、都市の衰退と時期を重ねていたのです。
けれど、研究者たちの見方はここで止まりません。
干ばつだけでは、なぜ都市によって崩れる時期がこれほど違ったのか、なぜ北の都市はむしろ栄えたのかを説明できないからです。
いまの学問が描くのは、もっと複雑で、もっと人間くさい像です。
慢性化した都市間の戦争。
人口の増えすぎと、それを支えきれなくなった農地の疲弊。
畑を広げるために森を切り開いた結果の森林破壊と土壌の流出。
こうした重荷がすでに社会にかかっていたところへ、干ばつが最後のひと押しとして加わった。
支えを失った政治と経済が、地域ごとに、少しずつ時期をずらしながら崩れていった――そう考えられています。
崩壊は「事件」ではなく「過程」だった
もう一つ、私たちの直感を裏切ることがあります。
それは、この崩壊が一夜の出来事ではなかった、ということです。
南部低地の衰退は、およそ百五十年から二百年をかけて進みました。
ある都市が石碑を彫るのをやめた数十年後に、隣の都市がようやく傾きはじめる。
栄えていた中心が空になり、周辺の村へと人が散っていく。
それは、地図の上を一色に塗りつぶすような一斉の消滅ではなく、地域ごとに時間差を持った、ゆっくりとした撤退の連なりでした。
一つの王朝が倒れることと、一つの文明の秩序全体が崩れることのあいだには、これだけの長い年月が横たわっていたのです。
崩壊とは点ではなく、線でした。
そしてその線の上には、そのつど選択を迫られた、無数の人々の暮らしがありました。
マヤは消えていない
そして、ここがもっとも大切なところです。
古典期マヤの崩壊で終わったのは、あの巨大な都市と、王を神として戴(いただ)く政治の「かたち」でした。
マヤという人々そのものが滅んだわけでは、けっしてありません。
南部低地の都市が沈黙していったころ、北のユカタン半島では、チチェン・イッツァのような新しい中心がむしろ勢いを増していきました。
文明は消えたのではなく、重心を移し、かたちを変えて続いていったのです。
そしていまも、数百万のマヤの人々がユカタンや中米の各地で暮らしています。
彼らの言葉は生きた言語として話され続け、暮らしや祈りの中に、古い知恵が息づいています。
「マヤが消えた」という物語は、事実として誤っているのです。
私たちが崩壊から受け取れるもの
古典期マヤの崩壊が、現代の私たちの胸をざわつかせるのは、それが持続可能性をめぐる議論のなかで、いまも繰り返し引き合いに出される物語だからでしょう。
豊かに見えた社会が、いくつもの重荷を同時に抱え、最後のひと押しで傾いていく。
その構図は、どこか遠い他人事には思えません。
けれど私は、この物語から取り出すべき教訓は、「破滅の警告」だけではないと思っています。
一つの原因を犯人に仕立てて安心するのではなく、いくつもの支えが同時にきしむ音に耳を澄ますこと。
崩れるものと、かたちを変えて残るものを、丁寧に見分けること。
いま、あなたの足の裏は、床の硬さをしっかりと受け止めているでしょうか。
息を吸い込んだとき、胸がふくらむ確かな感触が、そこにあるでしょうか。
遠い熱帯雨林で千年前に沈んでいった石の都市を思いながら、それでもなお続いていく人々の暮らしと、いま自分を支えている一つひとつの土台を、手のひらでそっと確かめてみたくなります。