ひとつの分子について、これほど正反対のことが語られている例も、そう多くはないと思います。
一方には、がんにも、ウイルスにも、炎症にも効く可能性がある、と紹介する記事があります。
もう一方には、まったく効かないことで決着している、と切り捨てる記事があります。
どちらも論文を引いていて、どちらも自信に満ちています。
情報が津波のように押し寄せてくるとき、要るのは、より多くの情報ではないのだと思います。
押し寄せてきたものを測れる、一本の物差しのほうです。
イベルメクチンという分子は、その物差しを手に入れるのに、これ以上ないほど良い教材になります。
名前が覚えていること
エバーメクチン(avermectin)。
イベルメクチンの、もとになった物質の名前です。
この名前は、ラテン語の vermis(ウェルミス)=虫、からできています。
頭についた a- は「〜が無い」という打ち消しです。
a + vermis で、「虫がいない」。
同じ根は、食卓にも残っています。
スパゲッティよりずっと細いパスタに、ヴェルミチェッリ(vermicelli)というものがあります。
イタリア語で「小さな虫たち」。
細くて長い麺の見た目から、そう名づけられました。
1974年、北里研究所の微生物学者・大村智さんは、静岡県伊東市川奈のゴルフ場のそばで、土をひとすくい採りました。
その土にいた放線菌が、線虫を殺す物質をつくっていました。
菌には Streptomyces avermitilis という名がつけられます。
これもまた、虫がいなくなる、という意味です。
物質のほうはエバーメクチンと名づけられ、その改良型がイベルメクチンになりました。1
1987年から、この薬は熱帯地域に無償で配られはじめます。
オンコセルカ症 ―― 目に寄生した虫が失明を起こす病気です ―― や、リンパ系フィラリア症のために、いまも年間およそ4億人が口にしています。
2015年、大村さんはこの発見で、ノーベル生理学・医学賞を受けています。
この分子の名前は、はじめから、ひとつのことだけを約束していました。
虫を、いなくする。
その約束を、どうやって果たしているのか。
そこから歩いていきます。
一本の鍵が、一つの鍵穴に入る
線虫の神経と筋肉には、グルタミン酸作動性クロライドチャネルという通り道があります。
名前が長いので、塩化物イオン ―― マイナスの電気を帯びた粒です ―― を通すための門、と思ってください。
イベルメクチンは、この門にはまり込んで、開けっぱなしにします。
マイナスの粒が細胞の中へ流れ込み続け、神経は信号を出せなくなります。
虫の口と体の筋肉がゆるみ、餌を取れなくなって、体の外へ運ばれていきます。

ここで決定的なのは、この門が無脊椎動物にしか無いということです。
私たちの体には、この鍵穴そのものが存在しません。
安全の仕掛けは、もう一つあります。
哺乳類でこの門にいちばん近い親戚はGABA受容体で、これは脳にあります。
ところが脳の入り口には、P糖タンパク質という汲み出しポンプが張りついていて、イベルメクチンを見つけると片端から血液側へ押し返してしまいます。
この二重の仕掛けのおかげで、イベルメクチンは驚くほど安全な薬になりました。
薬の世界には therapeutic index(治療係数)という言葉があります。
効く量と危ない量が、どれだけ離れているかを表す物差しです。
イベルメクチンのそれは、群を抜いて広いのです。
このポンプがほんとうに効いていることは、思いがけない形で証明されています。
コリー犬の一部は、生まれつきこのポンプの遺伝子が壊れています。
同じ薬を同じ量だけ与えると、彼らの脳には薬が溜まり、重い神経症状が出ます。2
違うのはポンプだけです。
安全であることと、何も起こさないことは、同じ一つの事実
イベルメクチンを安全にしていたのは、二つのことでした。
私たちが持っていない鍵穴を狙っていること。
そして、脳に届く前に汲み出されること。
この二つを裏返すと、こうなります。
私たちの体の中に、この分子が触れる相手は、そもそもほとんどいない。
安全性と不活性は、別々の性質ではありません。
同じひとつの事実を、二つの側から見ているだけです。
そして、片方だけを取って、もう片方を捨てることはできません。
それでも、候補は次々に見つかる
ところが論文を開くと、この分子はいくつもの顔を見せます。
ウイルスの部品が細胞の核に入り込むとき、インポーチンという運び屋が使われます。
イベルメクチンは、この運び屋を邪魔します。
がん細胞では、増殖を助けるPAK1というタンパク質や、増殖の合図を伝えるWNTという回路に働きかけます。
免疫の側では、細胞からATPを放出させて、免疫が「そこにがんがある」と気づきやすい状態をつくる、という報告もあります。
抗がん剤を細胞の外へ汲み出してしまう耐性ポンプを塞ぐ、という話もあります。
どれも作り話ではありません。
査読を通った論文が、実際に存在します。
ならば、なぜひとつの分子が、これほど無関係な相手に次々と手を出せるのか。
薬理学には polypharmacology(多標的性)という言葉があります。
ひとつの分子が、いくつもの標的に同時に作用してしまう性質のことです。
イベルメクチンは、その代表格です。
分子量はおよそ875と大きく、脂に溶けやすく、環状で、形をぐにゃぐにゃ変えられます。
そういう分子は、細胞の膜に溶け込み、タンパク質の脂っぽいくぼみに、あちらでもこちらでも引っかかります。
創薬の現場では、こういう分子を frequent hitter(よく当たる分子)と呼びます。
褒め言葉ではありません。
どんなふるいにかけても何かに引っかかってしまう、という意味です。
効きそうな候補が多いことは、その分子が強いことの証拠ではありません。
むしろ、狙いが甘いことの証拠です。
ひとつの標的に、ごく薄い濃さで結びつく分子は、薬になります。
いくつもの標的に、濃くしてようやく結びつく分子は、薬というより溶剤に近づきます。
濃度さえ上げれば、脂に溶ける分子はたいてい何かの細胞を殺します。
エタノールでもそうなります。
だから問いは、いつも「何かが起きるか」ではありません。
どれくらいの濃さで起きるのか。
そしてその濃さに、人間の体が届くのか。
濃度の壁
薬の効き目を決めるのは、飲んだ量ではありません。
血液の中で、その分子がどれくらいの濃さで漂っているか、です。
ここではマイクロモルという単位を使います。
数字が大きいほど濃い、と思っていただければ足ります。
承認されている量 ―― 体重1キロあたり150から200マイクログラム ―― を飲んだとき、血液の中の最高濃度は、およそ0.05マイクロモルです。3
一方、論文の中でがんやウイルスに効いている濃度は、およそ1から5マイクロモル。
20倍から100倍の隔たりがあります。
では、量を増やせばよいのか。
2002年、健康な人に、承認量の10倍にあたる120ミリグラムを一度に飲んでもらう試験が行われました。
安全でした。
神経の異常も出ませんでした。
そして到達した濃度は、およそ0.28マイクロモル。4
いちばん低い1マイクロモルにすら、まだ届いていません。
さらに濃さを上げようとすると、脳を守っていた汲み出しポンプのほうが追いつかなくなります。
仮説を試せるだけの濃さに達したときには、この薬を有名にした安全性のほうが失われている。
これを、濃度の壁と呼ぶことにします。

壁より低い濃さでは、この分子は世界を変える薬です。
虫の鍵穴との結びつきだけは、ほかの相手に対するものより千倍ほど強いのです。
だから寄生虫の治療は、壁よりずっと低い濃さで成立しています。
そして壁より高いところに、報告されてきた他のすべての可能性があります。
公平を期すなら、反論もあります。
この分子は脂に溶けるので、脂肪や肝臓、肺といった組織では、血液より数倍高い濃度になりうる。
これは事実です。
ただ、数倍では、20倍から100倍の隔たりは埋まりません。
コロナのときに起きたこと
2020年、培養皿の上で、イベルメクチンが新型コロナウイルスの遺伝子を大きく減らしたという報告が出ました。
効いた濃度は、およそ2マイクロモル。
論文の著者自身が、人間でこの濃度に届くのかという問いを書き添えています。5
そこから起きたことは、記録として残しておく値打ちがあります。
観察研究や小さな試験が集まり、それらをまとめて解析した論文が、有効という結論を出しました。
その中でいちばん重みを持っていた一本 ―― エジプトからの報告 ―― が、2021年7月に撤回されます。
同じ患者のデータが重複していたこと、試験が始まる前の日付で死亡が記録されていたこと、文章の盗用が見つかったことが理由でした。
この一本だけで、生存に対する効果のおよそ13パーセントを担っていました。
除いて計算し直すと、予防の効果は消えました。6
一方で、正直に置いておくべき話もあります。
一部の地域では、イベルメクチンを飲んだ患者さんの経過が、実際に良かった可能性があります。
糞線虫という寄生虫が広く分布する地域では、コロナの治療で使われるステロイドによって、体内に潜んでいた虫が一気に増えてしまうことがあります。
そこでイベルメクチンを飲めば、虫のほうは片づきます。
ウイルスにではなく、虫に効いていた、という説明です。
仮説の域を出ませんが、筋は通っています。
そして、大規模できちんと設計された無作為化試験が並びました。
ブラジルの試験は、入院を減らしませんでした。7
アメリカの試験は、回復までの日数を12日と13日で比べ、差と呼べるものは出ませんでした。
量を1.5倍にして6日間続けた追加の試験でも、結果は変わりませんでした。8
イギリスの試験では、症状が消えるまでが2日ほど早くなりました。
ただし入院も死亡も減っていません。
この試験では、どちらを飲んでいるかを本人が知っています。
自分は薬のほうだと分かっていると、症状は軽く感じられやすくなります。9
マレーシアの試験でも、重症化は減りませんでした。10
大陸を越え、量を変えても、命や入院という、ごまかしの効かない指標は動かなかった。
濃度の壁から予想されるとおりの結果です。
がんではどうか
がんの話も、構造は同じです。
前臨床 ―― 培養細胞と動物実験の段階です ―― の報告は豊富にあります。
ただ、その多くが、壁より高い濃さで起きています。
人間ではどうか。
転移のあるがんの患者さんを対象に、イベルメクチンと免疫チェックポイント阻害剤 ―― 免疫にかかっているブレーキを外す薬です ―― を組み合わせた小規模な試験が行われ、2025年に結果が報告されました。
評価できた8人のうち、腫瘍が部分的に縮んだ方が1人、変わらなかった方が1人、進んだ方が6人。11
研究者の結論は、安全に使えて、続けて調べる値打ちがある、というものでした。
これは否定ではありません。
有望なものとして研究が続いている段階、という位置です。
そしてこの位置は、新しい治療のほとんどが通る道です。
ここで9割が消えていきますが、消えなかったものが薬になります。
それでも語り継がれる理由
これだけの結果が出ても、この分子の話は消えません。
理由はいくつも重なっていて、そのうちのひとつは、まったく正当なものです。
正当なほうから書きます。
特許の切れた安い薬を、大規模な試験にかけてくれる人はいません。
試験には何十億円もかかり、成功しても誰も回収できないからです。
drug repurposing(既存薬の転用)と呼ばれるこの領域には、本当に穴があります。
メトホルミン、アスピリン、シルデナフィル。
もともと別の目的で作られた薬が、思わぬ場所で役に立った例は実在します。
安い薬をもう一度調べようという発想そのものは、正しいのです。
そこに、いくつかのものが重なります。
ノーベル賞という後光。
日本では、大村智さんという名前がそこに加わります。
安く、安全で、自分の手が届く、という三つがそろっていること。
病を前にして、自分にもできることがあるという感覚は、それ自体が切実な必要です。
そして、握りつぶされているという物語の形。
安いから潰されている、という説明は、証拠が無いことすら証拠に変えてしまいます。
反証のしようがない話は、いつまでも生き続けます。
ただ、がんの領域に関して言えば、この最後の説明は事実と合いません。
さきほどの試験は実際に行われ、資金を出したのは営利企業ではなく、非営利の団体でした。
誰も調べていない、ということはないのです。
手放さないでおくもの
ここまで書いてきたことは、この分子に見込みが無い、という話ではありません。
濃度の壁は、分子の値打ちを決める壁ではありません。
いまの飲み方では、その濃さに届かない、というだけの壁です。
届け方が変われば、壁の位置も変わります。
薬を目的の場所まで運ぶ技術、構造を少し変えて結びつきを強めたよく似た分子、単独ではなく何かと組み合わせる設計。
壁を越える道は、いくつも研究されています。
私は、この分子がいつか何かの役に立つ日が来ると思っています。
これだけ多くの入り口を持つ物質が、どの入り口からも入れないままで終わるとは考えにくいのです。
大切なのは、探し続けることです。
そして、探し方を間違えないことです。
ここで、私自身の線引きを書いておきます。
食べものについては、自分の体で自由に試します。
何をどう食べるかの最善は人によって違うので、自分で試すほかにありません。
減らして、増やして、時間をずらして、体の応えを見る。
合わなければ翌日に戻せます。
処方も要りません。
N=1の実験は、食べもののためにある方法です。
薬については、そうしません。
薬で試すこと自体には賛成です。
試さなければ、何も分かりませんから。
ただ、その実験は、きちんと設計された場所で、薬の専門家と一緒に行うものだと考えています。
理由は単純で、薬のほうは、やめても体が戻らないことがあるからです。
海外の通販で獣医用の駆虫薬を手に入れ、自分で組み合わせて飲んだ方が、重い肝障害を起こした症例が報告されています。12
試そうとした意志のほうは、正しかったのです。
違ったのは、試した場所でした。
試すことと、独りで試すことは、別のことです。
次の分子に、この物差しを
イベルメクチンの次には、また別の薬の名前が回ってきます。
フェンベンダゾール、メベンダゾール、メチレンブルー。
すでにいくつも出まわっています。
語られ方は、いつも同じ形です。
安くて、古くて、実験室では何にでも効く。
そのときに使えるものを、四つ書いておきます。
一つ。その効果は、どれくらいの濃さで起きているのか。
そして人間の体は、その濃さに届くのか。
二つ。その働きは、分子が本来狙っている相手に対するものか、濃くしたときにだけ現れる副次的なものか。
効きそうな候補が多すぎるときは、後者を疑います。
三つ。人間を対象にした無作為化試験で、入院や生存のような、ごまかしの効かない指標が動いているか。
細胞と動物と症例報告は、問いを立てるためのものであって、答えではありません。
四つ。この話で、誰が得をするのか。
自分が賛成したい側にも、同じように聞きます。
四つのうち、一つ目だけでも、津波のほとんどはやり過ごせます。
エバーメクチンという名前は、ひとつの約束でした。
虫を、いなくする。
その約束を、この分子は五十年にわたって、正確に守り続けています。
年に4億人分の約束です。
私たちが期待しているのは、その名前が引き受けたことのない仕事のほうです。
頼むこと自体は、悪いことではありません。
ただ、頼むのなら、届く濃さで頼まなければならない。
情報が津波のように押し寄せてくるとき、足の裏がつく場所は、たぶんそこにあります。
どれくらいの濃さで、それは起きているのか。
-
大村智記念学術館「大村智博士の紹介」ほか。1974年、静岡県伊東市川奈の土壌から放線菌を分離。1979年に Streptomyces avermitilis と命名し、抗寄生虫物質をエバーメクチンとして発表。2015年ノーベル生理学・医学賞(William C. Campbell と共同受賞)。 ↩
-
Relative Neurotoxicity of Ivermectin and Moxidectin in Mdr1ab (−/−) Mice and Effects on Mammalian GABA(A) Channel Activity. PLoS Neglected Tropical Diseases 2012;6(11):e1883.
Mealey KL et al. Treatment of MDR1 Mutant Dogs with Macrocyclic Lactones. Curr Pharm Biotechnol 2012;13(6):969–986. ↩
-
STROMECTOL®(ivermectin)添付文書, U.S. FDA. 空腹時12mg単回投与での血漿最高濃度は平均30.6〜46.6 ng/mL(分子量約875から換算しておよそ0.035〜0.053マイクロモル)。 ↩
-
Guzzo CA et al. Safety, Tolerability, and Pharmacokinetics of Escalating High Doses of Ivermectin in Healthy Adult Subjects. The Journal of Clinical Pharmacology 2002;42(10):1122–1133. 単回120mg投与時の最高濃度は約247.8 ng/mL。 ↩
-
Caly L, Druce JD, Catton MG, Jans DA, Wagstaff KM. The FDA-approved drug ivermectin inhibits the replication of SARS-CoV-2 in vitro. Antiviral Research 2020;178:104787. ↩
-
撤回された報告は Elgazzar A et al.(Research Square プレプリント、2021年7月15日撤回)。
解析への影響と教訓については Lawrence JM et al. The lesson of ivermectin: meta-analyses based on summary data alone are inherently unreliable. Nature Medicine 2021;27:1853–1854. ↩
-
Reis G et al. Effect of Early Treatment with Ivermectin among Patients with Covid-19. New England Journal of Medicine 2022;386:1721–1731.(TOGETHER 試験、体重1kgあたり400マイクログラムを3日間) ↩
-
Naggie S et al. Effect of Ivermectin vs Placebo on Time to Sustained Recovery in Outpatients With Mild to Moderate COVID-19. JAMA 2022;328(16):1595–1603.
Naggie S et al. Effect of Higher-Dose Ivermectin for 6 Days vs Placebo on Time to Sustained Recovery in Outpatients With COVID-19. JAMA 2023;329(11):888–897. ↩
-
Hayward G et al. Ivermectin for COVID-19 in adults in the community (PRINCIPLE): An open, randomised, controlled, adaptive platform trial of short- and longer-term outcomes. Journal of Infection 2024. ↩
-
Lim SCL et al. Efficacy of Ivermectin Treatment on Disease Progression Among Adults With Mild to Moderate COVID-19 and Comorbidities: The I-TECH Randomized Clinical Trial. JAMA Internal Medicine 2022;182(4):426–435. ↩
-
転移のあるがんを対象としたイベルメクチンと抗PD-1抗体バルスチリマブの第I/II相試験。Journal of Clinical Oncology 2025;43(16_suppl):e13146(ASCO 2025)。試験登録番号 NCT05318469。資金提供は非営利団体 Gateway for Cancer Research。 ↩
-
Drug-Induced Liver Injury Following Co-ingestion of Veterinary Fenbendazole and Ivermectin for Prostate Cancer: A Case Report. Cureus 2026. 65歳男性、3ヶ月の自己投与後にALT 1764 U/L、総ビリルビン12.9 mg/dL。中止により6週間で正常化。 ↩