長い航海に出た帆船の記録に、繰り返し現れる症状があります。
歯ぐきが腫れて出血する。
皮膚に点のような出血が浮かぶ。
新しい傷が、いつまでも治らない。
壊血病 (scurvy) です。
ヒトは、ほとんどの動物と違って、ビタミンC(アスコルビン酸)を自分の体で作れません。
食べものから摂り続けるしかない栄養素です。
成人の壊血病をまとめた総説によれば、摂取が途絶えて数週間たったころに最初に現れるのは倦怠感で、そのあとに皮膚と歯ぐきの症状、そして傷の治りの遅れが続きます。
この病気がたどられてきた道のりも、船員たちの記録から、James Lind による柑橘の比較試験、Szent-Györgyi によるビタミンCの同定まで、別の総説にまとめられています1。
その記録には、もう一行あります。
新しい傷が治らないだけでなく、何年も前に閉じていた古い傷跡が、ひとりでに開いていったという記述です。
治り終わったはずの場所が開くということは、その場所が、ずっと同じ形で保たれていたのではないという意味になります。
傷跡の中では、コラーゲンが分解され、また作られ、が繰り返されていました。
作るほうが止まったとき、分解だけが残った。
1976年に、この現象を生化学の言葉で整理した報告があります。
古い傷跡でのコラーゲン分解の速さは、通常の皮膚より速い。
そこにビタミンC不足による全身の合成低下が重なる。
二つが同時に起きるので、古い傷跡のほうが先にほどける2。
この報告は数ページの短報で、著者らが機序の見取り図を組み立てて示したものです。
前向きの試験で確かめられた結論ではありません。
それでも、傷跡は置いておかれる構造物ではなく、作り続けられている構造物でした。
塞がったあとに、いちばん長い時間が来る
創傷治癒 (wound healing) は、四つの相に分けて説明されます。
止血、炎症、増殖、そして成熟・再構築 (remodeling) です。
この整理を示した総説は、それぞれの相を妨げる条件も並べています。
酸素の届きにくさ、感染、加齢、ストレス、糖尿病、肥満、薬剤、飲酒、喫煙、そして栄養です3。
血が止まり、免疫の細胞が入って傷の中を掃除し、新しい組織と血管が作られる。
ここまでで、見た目には傷が閉じます。
体の仕事が長いのは、そのあとです。
再構築の相は、傷ができておよそ3週目からはじまり、長い場合には12か月ほど続きます。
この期間に、はじめに急いで敷かれた細く不揃いなコラーゲンが、太く、向きのそろった線維へ置き換えられていきます。
傷の引っぱり強度が最も高くなるのは、11週から14週あたり。
それでも、傷跡の強さは、もとの皮膚のおよそ8割程度にとどまるとされます4。
これはヒトの皮膚の切創についての概括値で、傷の部位、そこにかかっている張力、年齢、縫合の方法によって幅があります。
数字の裏づけとしてよく引かれる実測は、1965年にラットの皮膚の傷を長期に追跡した研究です。
つまり8割は、ヒトで測り直された確定値ではなく、幅を含んだ目安として受けとる数字になります。
それでも、皮膚が閉じてからの数か月が、その傷跡の強さを決めています。
コラーゲンは、作ったあとに直される
では、その強さは何で決まるのでしょう。
生化学に、翻訳後修飾 (post-translational modification) という考え方があります。
細胞は、遺伝子の情報からタンパク質の鎖をまず作り、そのあとで、鎖の途中の部品に化学的な手を加えます。
作ってから、直す。
この後半の工程のことです。
コラーゲンは、この工程に強く依存しているタンパク質です。
コラーゲンの鎖には、プロリンとリジンというアミノ酸が並んでいます。
鎖ができあがったあと、酵素がこの二つに水酸基(酸素と水素がひと組になったもの)を付け加えます。
水酸化 (hydroxylation) と呼ばれる反応です。
プロリンが水酸化されると、三本の鎖がよじれ合った三重らせん (triple helix) が、体温のもとで安定します。
水酸化を受けなかった鎖は、この形を保てません。
この修飾は、ヒトの体で最も多く起きている翻訳後修飾で、一度付いた水酸基は元には戻りません。
リジンのほうの水酸化には、別の役目があります。
水酸化されたリジンには糖の鎖が付き、コラーゲンどうしをつなぎ止める架橋の足場になります5。
ここでビタミンCが登場します。
水酸化を担う酵素は、活性の中心に鉄イオンを抱えています。
反応が進むたびに、その鉄はときどき酸化されて、次の反応を進められない形に変わります。
ビタミンCは、その鉄を元の形に戻し、酵素を使える状態に保ち続けています。
補酵素(酵素そのものではないけれど、酵素がはたらくために必要な小さな分子)としての役目です6。
ビタミンCが尽きた船の上では、コラーゲンの鎖は作られていました。
作られたあとの直しの工程が、進まなかった。
壊血病とは、コラーゲンを作り直す工程が止まった状態のことでした。
材料の話
傷を塞ぐとき、体はコラーゲンをまとめて新しく作ります。
コラーゲンはタンパク質ですから、材料はアミノ酸です。
食べたタンパク質が分解されてできたアミノ酸が、傷の場所へ運ばれて、線維になる。
低栄養の状態では、傷の引っぱり強度が下がり、感染も起きやすくなることが知られています。
皮膚に潰瘍を持つ患者の多くは、微量栄養素の不足と、何らかの程度の低栄養をあわせ持っています。
これを整理した総説は、いま行われている栄養療法が、治癒を遅らせている不足を是正することに向けられている、とまとめています7。
亜鉛は、DNAの複製とタンパク質の合成に関わる多くの酵素の中心に入っています。
傷の表面を細胞が分裂しながら覆っていく上皮化 (epithelialization) にも、細胞膜の修復にも、亜鉛を必要とする酵素が関わっています。
亜鉛が欠けると、皮膚の病変、成長の遅れ、免疫機能の低下、そして傷の治りの障害が現れます8。
これは細胞と分子のレベルで機序を整理した総説であって、臨床で亜鉛を足した結果を示したものではありません。
鉄は、二つの場所ではたらきます。
一つは、いま見たコラーゲンの水酸化酵素の中心。
もう一つは、赤血球のヘモグロビンとして酸素を運ぶ役目です。
水酸化の反応そのものが酸素を使うので、酸素が届きにくい場所では、この工程も進みにくくなります9。
鉄については、読み方に注意が要ります。
鉄の不足や貧血と傷の治りの関連を調べた初期の研究群は、傷が肉眼で塞がったかどうかや上皮化ではなく、創部の強度を主な指標にしていました。
何を測っていたかが違えば、そこから言えることも変わります。
鉄はまた、局所に溜まりすぎたときには害の側にはたらきます。
慢性静脈疾患やヘモクロマトーシスでは、そのことが問題になります。
足りない状態が続けば、傷の治りは損なわれます。
足りている人がさらに足したときに治りが速くなるかは、別の問いです。
床ずれのある入院・入所中の方88名を対象に、複数の施設で行われた二重盲検の無作為化試験があります。
一方の群はビタミンC(アスコルビン酸)を500mgずつ1日2回、もう一方の群は10mgずつ1日2回、12週間にわたって受けました。
傷が閉じた割合でも、治癒の速さでも、写真を第三者が評価した結果でも、多く摂った群が上回ることはありませんでした10。
対照群にもビタミンCが投与されているので、この試験が見ているのは、欠乏を是正した効果ではなく、量を上乗せした効果です。
脚の潰瘍に経口の硫酸亜鉛を用いた無作為化試験6件、あわせて183名分をまとめたシステマティックレビューもあります。
このうち静脈性の潰瘍を扱った4件をプラセボと統合した解析では、治癒した割合に差はみられませんでした(相対リスク 1.22、95%信頼区間 0.88〜1.68)。
著者は、含まれた試験がいずれも小規模で、報告が十分でないためにバイアスのリスクを判定できなかった、とも記しています11。
皮膚とビタミンCの関係をまとめた総説も、口から摂る場合と肌に塗る場合とで、どちらがどの指標を動かすのかについては証拠が足りない、と明記しています。
材料は、工程が進むための条件です。
足すほど速く進む燃料ではありません。
手術のあと、体は分解の側に傾く
手術は、体にとって計画された大きな傷です。
外科侵襲を受けると、コルチゾールやカテコラミンといったホルモンが増え、代謝は異化 (catabolism) の方向へ傾きます。
異化とは、体が自分の組織を分解して、エネルギーとアミノ酸を取り出すはたらきのことです。
筋肉のタンパク質が分解され、血糖が上がりやすくなり、インスリンが効きにくくなります。
外傷と手術に対する体の反応をまとめた総説は、この一連を、視床下部・下垂体・副腎の系と交感神経系が同時に活性化した結果として説明しています12。
術後の体は、コラーゲンを大量に作らなければならない時期に、同時に、自分のタンパク質を崩す方向の指令を受けています。
ここでエネルギーだけを足しても、合成は進みません。
糖と脂肪はエネルギーになりますが、コラーゲンの鎖にはなれない。
欧州臨床栄養代謝学会 (ESPEN) の外科患者向けガイドラインは、必要量の見積もりとして、エネルギーは体重1kgあたり25〜30kcal、タンパク質は理想体重1kgあたり1.5gという数字を挙げています13。
これは入院して手術を受ける患者を対象にした診療ガイドラインで、個々の患者に当てはめる判断は、担当する医療者が行います。
その配分を実際に組むのは、医療機関の管理栄養士です。
腎機能、肝機能、服薬、手術の内容を見ながら、一人ずつ設計されています。
ここに書いているのは、その設計の背後で動いている仕組みの説明です。
サプリメントを使いたいときも、先に主治医と薬剤師に伝えるのが順番になります。
ビタミンやミネラルの中には、抗凝固薬の効き方や、他の薬の吸収に影響するものがあります。
術前の絶飲食も、同じ線の上にあります。
日本麻酔科学会の術前絶飲食ガイドラインは、清澄水を麻酔導入の2時間前まで摂ってよいとしています。
年齢を問わず安全とされ、推奨の強さは最も高い段階に置かれています。
清澄水として使えるものは、水、茶、果肉を含まない果物ジュース、ミルクを含まないコーヒーなどです。
そのうえで同じガイドラインは、「浸透圧や熱量が高い飲料,アミノ酸含有飲料は胃排泄時間が遅くなる可能性があるので注意が必要であり,脂肪含有飲料,食物繊維含有飲料,アルコールの使用は推奨できない」と書いています14。
人工乳と牛乳は6時間前まで、母乳は4時間前まで。
固形物については明確な絶食時間を示さず、欧米のガイドラインを参照して、トーストと清澄水程度の軽食なら6時間以上、揚げ物や脂質の多い食物、肉なら8時間以上あけるとしています。
このガイドラインが対象にしているのは、日程を決めて行う待機的手術の患者です。
消化管の狭窄や機能の障害がある方、気道の確保が難しいと予想される方、緊急手術を受ける方、リスクの高い妊婦の方は、適応の外に置かれています。
先ほどの欧州のガイドラインにも実務向けの版があり、誤嚥のリスクが特にない患者について、麻酔の2時間前まで清澄水を、6時間前まで固形物を摂ってよいとしています。
油を入れた飲みものは、体にとって水分ではなく食事です。
胃から出ていくのに時間がかかります。
そして、いつから何をやめるかを決めるのは、病院からの指示です。
ここに書いた時間は、その指示の背景にある考え方の説明にあたります。
帝王切開という、層になった傷
開腹手術で切られているのは、皮膚だけではありません。
皮膚の下に脂肪の層があり、その下に、腹壁の強さを担っている筋膜 (fascia) があります。
帝王切開では、さらにその奥で、子宮の壁が切られ、縫い合わされます。
見えている線は一本ですが、傷は層になっています。
そして層ごとに、それぞれの速さでコラーゲンが作り直されています。
子宮の傷跡がどう治るかは、産科でよく調べられている主題です。
帝王切開のあと、子宮の壁の内側にくぼみが残ることがあり、ニッチと呼ばれています。
ゲルや生理食塩水を使って子宮の中を観察すると、帝王切開を受けた女性の半数以上でこのくぼみが確認されます。
ニッチのある女性の約30%が、手術から6〜12か月のあいだに不正出血を報告しています。
切開の位置が頸管の組織にかかるほど低いこと、子宮を縫う手技、癒着を増やす操作、そして治癒を妨げる患者側の要因が、成因の仮説として挙げられています15。
この論文は、表題のとおり仮説を提示したもので、原因が確定しているわけではありません。
腹壁のほうでは、筋膜の傷跡の強さが、腹壁瘢痕ヘルニアという形で後から表に出ます。
ヘルニアの患者の結合組織を扱った55編の研究をまとめた系統的レビューでは、鼠径ヘルニアと腹壁瘢痕ヘルニアの患者の筋膜と皮膚の生検で、I型とIII型のコラーゲンの比が下がっていました。
再発した例では、その変化がより目立っていました。
著者は、鼠径ヘルニアは全身の結合組織の素因から、瘢痕ヘルニアは治癒の障害から生じるという仮説を立てています16。
一方で、コラーゲンの分解に関わる血液中の指標や、筋膜の総コラーゲン濃度には群の差が出ておらず、関連は一様ではありません。
筋膜のコラーゲンが作り直されていく時間は、傷が閉じて見えるまでの時間より、ずっと長く続きます。
痛みが消えた感覚と、組織の強さが戻る速さは、別々の時間で動いています。
heal という言葉が覚えていること
英語で heal という言葉は、古英語の hælan に由来します。
もともとの意味は「治す」「救う」、そして「whole(全き)ものにする」でした。
この語根は、whole(全体)、hale(壮健)、health(健康)と同じところから出ています17。
治すとは、もともと、元通りにすることではありませんでした。
欠けたところを、全体に戻すこと。
そういう手つきを指した言葉でした。
欠けたところを戻すには、戻すためのものが要ります。
言葉が覚えていた意味と、コラーゲンの生化学は、同じことを言っています。
縫い目が消えたあとも
傷が塞がるとは、体がコラーゲンを作り直すことです。
その工程は、皮膚が閉じたあとも数か月から1年ほど続きます。
そして工程には、アミノ酸と、ビタミンCと、亜鉛と、鉄が要ります。
手術を控えている方、終えたばかりの方は、病院の指示を軸に置けます。
絶飲食の時間も、サプリメントの可否も、栄養の量も、そこが基準になります。
そのうえで、日々の食事を、休むための時間としてだけでなく、材料が届く時間としても見ていけたら。
傷跡の上に指を置くと、まわりの皮膚より少し硬く、少し盛り上がっているのが分かります。
その硬さは、まだ作り替えの途中にあるという合図です。
指の下で、線維はいまも並べ替えられています。
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