母の生まれ故郷の中心に浄土真宗のお寺があり、その村すべての世帯が檀家でした。僕が子供の頃は毎年今の時期はその村にあるおばあちゃんの家で過ごしました。あちこちの家屋から「なもあみだんぶー」のお経が虫の音とともに音楽の様に聞こえてきたものです。
浄土真宗の開祖である親鸞は悪人こそ救済されるのだと言いました。
「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、『悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや』」
善人でさえ天国にいけるのだから悪人ならなおさら可能ですよ、という意味です。
この話を聞いた時の最初の反応は「あれ?反対じゃないの?」ですね。
親鸞は悪人とは自分の罪深さを自覚している人だと意味しています。善人とは善い行いの人ですが、人間は欲の存在であるという観点からは、自分を善人だと思っている人は、どう取り繕っても偽善者なんですね。
新約聖書マタイ伝の山頂の垂訓では
「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 」
とあります。自分の霊的貧しさを自覚している人ほど、神により頼み、深い祈りを行うからです。
善い悪いはひとつの見方であり、観点ごとに異なる解釈が成り立ちます。
人はその違いに苦しみます。その苦しみから逃れる方法は、自分が悪人でもあることを認めることです。守らなければいけないと感じている「善人」の部分に固執しなくなること。
自分が悪人であることを受け入れるということは、同時に異なる立場の人達の気持ちや存在に感謝の気持ちが湧いてきます。その気持ちをシンプルに言葉にして伝えると人間関係はよりよくなるのではないでしょうか。
「自分は本当にどうしようもない○○○です。どうぞお救い下さい。」
あの「なもあみだんぶー」の声にはそのような意味が込められていたかもしれないですね。
そしていつもその傍で鳴いていたセミの声には「許してあげるよ」という想いが込められていたのかもしれません。