ヨーガ・スートラ第1章・第4節

「Vṛtti-sārūpyam itaratra」

みなさん、こんにちは!前回は、ヨーガ・スートラの最初の3節を通して「心の動き(vṛtti)」やその制御について学びましたね。

そして今回は、その流れに続く4節 に注目します。


Vṛtti-sārūpyam itaratra(心の動きとの同一化)

サンスクリット原文の和訳:

「その他の場合  itaratra(心の制御がないとき)、自己は心の動き(**Vṛtti)**と同一化する(sārūpyam)。」

シンプルな一文ですが、ヨーガ哲学の核心を見事に突いていますね。

この「同一化」というキーワードが、私たちの日常や心の在り方にどう影響しているのかを掘り下げてみましょう!


この節の意味と重要性

私たちの本来の自己(プルシャ、純粋意識)は、心(チッタ)の動きや変化をただ「観察」する存在です。

でも、多くの場合、その動きを自分だと「錯覚」してしまいますよね。たとえば…

  • 怒りが湧くと、「私は怒りっぽい人間だ」と思い込む。
  • 失敗すると、「自分には価値がない」と感じてしまう。

こうした「錯覚」が生じると、本来の自己は心の波に飲み込まれ、感情や思考に左右されがちになります。

この状態が、ヨーガ的には「無知(アヴィディヤ)」であり、サンサーラ(生死の輪廻)の根本原因とされます。


ヨーガと哲学的背景のつながり

この「錯覚」の概念は、ヨーガ哲学だけでなく、ウパニシャッドにもルーツがあります。

ウパニシャッドでは、自己(アートマン)は常に純粋で完全な存在ですが、心の近くにいることで、その揺らぎに影響されているように見える、と説かれています。

つまり、ヨーガは「心の変化との同一化を断つ」ことで、外的な世界や物質的な束縛(サンサーラ)から解放される道を提供してくれるのですね。


日常生活に活かすなら?

では、この教えを私たちの日常でどう活かせるのでしょうか?

🎭 心は映画館!

心を映画館に例えてみましょう。映画館のスクリーン(自己)は純白で無垢。

でも、映写機(心)がいろんな感情や思考を映し出します。

映画が感動的でも悲劇的でも、スクリーン自体は何も変わりませんよね?

私たちも同じように、「映画(心の動き)」をただ観る練習をすることで、本来の自分を取り戻せます。

🍩 仕事場での例:

例えば、仕事で上司に叱られて「自分はダメな人間だ」と落ち込むとき。

この状態は、心の波と同一化している瞬間です。

自分をスクリーンだとイメージして、「ああ、これは私じゃなくて、心の一時的な感情だな」と観察するだけで、少し楽になるかもしれません。


今日の実践!ミニ瞑想

  1. 静かな場所を見つける 5分だけでもOKです。心が騒がしいときほど効果的!
  2. 目を閉じて呼吸に集中 吸って…吐いて…のリズムを意識してみてください。
  3. 心の動きを観察 怒りや不安が浮かんだら、「あ、今怒りが浮かんでるな」とただ気づきましょう。それを手放し、心の波を観察する意識を保つ練習をしてみてください。

心の動きに飲み込まれず、ただ観察する練習を続けると、私たちはどんな変化を体験できるでしょうか?

また、「自分=心ではない」と気づいたとき、どんな自由や解放感が得られるのでしょう?

映画館のスクリーンのように、変わらない自分を見つける旅は、まさにヨーガの本質です。今日から小さな一歩を踏み出してみましょう。

「Vṛtti-sārūpyam itaratra」は、心との同一化を断つ大切さを教えてくれる節です。ぜひ日常生活の中で、「私は心ではない」という視点を少しずつ取り入れてみてください!

それでは、次回もお楽しみに!🧘‍♀️✨

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