ヨーガ・スートラ連載:第1章 第3節 — 「ただ、見る者として自分自身に還るとき」
みなさん、こんにちは!前回は、「心のはたらきの止滅」についてお話ししてきました。
今回は第1章の第3節
「Tadā draṣṭuḥ svarūpe avasthānam(タダー ドラシュトゥ スヴァルーペ アヴァスターナム)」
にスポットを当てたいと思います。
スートラの日本語訳
Tadā draṣṭuḥ svarūpe avasthānam
そのとき、見る者(ドラシュトゥ)は自分の本来の姿にとどまる。
見る者
「ドラシュトゥ(draṣṭuḥ)」は、サーンキヤ哲学やヨーガ哲学でよく使われる「プルシャ(purusa)」と同様に、「私たちの純粋な意識」を表す言葉です。
ヨーガの伝統では「プルシャ」という用語がよく用いられますが、パタンジャリはこの「ドラシュトゥ(見る者)」という言葉を何度も使っています。
これは肉体の眼で見る“視覚”というより、あらゆる経験を「意識している」存在そのものを指しているのです。
簡単にいうと、私たちの“ほんとうの姿”は常に意識している存在、すなわち「観察者(観測者)」ということ。
こう聞くと「思考が止まると、意識そのものも消えちゃうの?」と不安になる人もいるかもしれません。
しかしヨーガ哲学では、「意識(プルシャ/ドラシュトゥ)は太陽の光のように、何の努力をしなくても“輝き”続けている」存在だと説きます。
太陽は太陽だからこそ輝き、消えてしまうことはないのと同じように、意識の本質は絶対に消えたりしない、というわけですね。
表面的な思考の波が静まったあとに
「思考が止まると自分が消えてしまう」という恐れは、まさに私たちの日常にある不安と似ています。
情報があふれる時代、「何か考えなくちゃ」「休んでるヒマはない!」と常に頭がフル回転。
でも、本当に思考を止めると、いわゆる“自分”が消失してしまう気がして怖いんですよね。
でも実際は、表面的な思考の波が静まったあとにこそ、“自分”が本来もっている穏やかさや、透明な明るさに触れることができるとヨーガは教えてくれるのです。
これがヨーガ・スートラ1章3節の核心。
「心の波が静まったとき、見ている存在(ドラシュトゥ)は本来の姿=ピュアな意識状態に留まる」。
この感覚を日々の練習の中で育んでいくことが、ヨーガの目指すところでもあります。
太陽はいつでも輝いてる
たとえば、バタバタの朝にコーヒーをこぼしてしまったら「最悪〜!」とイライラしてしまうかもしれません。
でも、そのイライラしている自分の内側で、「そんなに怒ってどうするん?」って見ている“自分”がいるはず。
その視点に気づけば、不思議と少し落ち着きませんか?
まるで雲の上にはいつも太陽があるのと同じように、私たちの意識はどんな思考や感情に覆われても決して失われることはないのです。
今すぐできる練習
- イライラ or モヤモヤを観察してみる 今日はちょっとイラっとしたとき、その思考や感情を「ちゃんと観察する」時間を3秒だけつくってみましょう。 「わ、今めっちゃイライラしてる」といった感じに、自分の中にドラシュトゥ(見る者)を意識してみるだけでOKです。
- そこに“ラベリング”してみる 例えば「苛立ちがあるね」「悲しみがやってきたかも」と、起きている感情や思考にラベルをつけてみます。 こうすることで、感情の渦中に巻き込まれすぎず、“見る者”の立場に一瞬でも立ち戻りやすくなります。
あなたが観ている景色とは
あなたの内側にいつも輝き続けている“ドラシュトゥ(見る者)”は、どんな景色を見せてくれそうですか?
その意識と少し仲良くなってみると、今の自分や毎日の風景がちょっとだけ違って見えてくるかもしれません。
「太陽はいつでもそこにある」。その事実を思い出すだけで、ちょっぴり気持ちが軽くなる。私たちの意識だって、それと同じなのです。
今回の第1章第3節は「見ている存在が本来の姿を取り戻すとき」についてお話しました。
ぜひ日常のワンシーンで“見る者”に気づいてみてくださいね。