商品の裏面に「天然由来」と書いてあると、つい、そちらのほうが良さそうに感じます。
「合成」と書いてあれば、なんとなく身構える。
この感覚そのものは、とても自然なものです。
ただ、この感覚が正しく働く場面と、まったく空振りに終わる場面があります。
そしてその境目は、宣伝の言葉ではなく、その成分がどんな分子なのかという一点で決まります。
ここを一緒に見ていくと、「天然だから」という言葉に振り回されずに、自分で判断できる目が手に入ります。
まず、直感を確かめる——天日塩と精製塩
イメージを合わせるために、塩から入りましょう。
海水を天日で乾かした塩と、工場で精製した塩。
前者には海のミネラルがわずかに残り、後者はほぼ純粋な塩化ナトリウムです。
舌に乗せれば味が違います。
ここでは「天然のほうが豊か」と言ってよさそうに思えます。
ところが、この直感をそのまま栄養成分に当てはめると、すぐにつまずきます。
塩で成り立った話が、ある成分では成り立ち、別の成分ではまるで逆になる。
なぜそんなことが起きるのか。
分子の性質を、三つの型に分けて見ていきます。
型その一:単一の小さな分子——天然も合成も、同じものです
いちばん誤解が多いのが、この型です。
構造が一種類しかなく、しかも左右対称のように「向き」を持たない小さな分子の場合、生物から抽出しても、工場で化学的に組み立てても、出来上がる分子は完全に同じものになります。
原子の種類も、並び方も、結合も、寸分違いません。
たとえばビタミンCがそうです。
柑橘から取り出したアスコルビン酸も、工業的に作られたアスコルビン酸も、分子としては見分けがつきません。
私たちの体には、その分子が果物から来たのか工場から来たのかを問い合わせる仕組みは、そもそも備わっていないのです。
体が反応しているのは分子そのものであって、履歴書ではありません。
ですから、この型の成分について「天然のほうが体に効く」と言うなら、生理学的な根拠は乏しいことになります。
差が出るとすれば、それは分子の違いではなく、純度や、いっしょに混じっているもの、そして由来にともなうリスクのほうです。
この点は、あとの型で詳しく見ます。
型その二:分子に「向き」があるとき——ここは天然に軍配が上がる
ところが、分子が左右の「向き」を持つようになると、話がひっくり返ります。
ここは少していねいに見ていきます。
いちばん実利のある一節だからです。
まず、両手を目の前にかざしてみてください。
右手と左手は、指の数も、関節の並びも、まったく同じです。
それなのに、右手に左手をぴったり重ねようとしても、決して重なりません。
片方をひっくり返しても、どうしても合わない。
鏡に映せば互いに同じ姿なのに、実物どうしは重ね合わせられない——これが右手と左手の不思議な関係です。
分子の世界にも、これとそっくりの現象が起きます。
原子の種類も数もまったく同じ、つなぎ方も同じなのに、右手と左手のように鏡像の関係にあって、決して重ね合わせられない二つの形が生まれることがある。
この鏡像違いの分子どうしを、化学では光学異性体、あるいはエナンチオマーと呼びます。
難しい言葉ですが、中身は「同じ部品でできた、右手型と左手型」というだけのことです。
なぜ、この「向き」が体にとって重大なのでしょうか。
それは、私たちの体が分子を、成分表ではなく形で見分けているからです。
体の中では、酵素も、受容体も、分子を受け止めるための「鍵穴」のような立体的なくぼみを持っています。
そこにぴたりとはまる「鍵」だけが働きます。
右手型と左手型は、鏡像である以上、この鍵穴に対しては別物です。
右手用の手袋に左手が入らないのと同じで、片方はきれいにはまって仕事をし、もう片方ははまらずに無効だったり、ときには別の場所にはまって違う作用をしたりします。
原子の顔ぶれが同じでも、体にとっては「効くほう」と「効かないほう」に、はっきり分かれるのです。
さて、ここからが、天然原料の話につながります。
生き物は、分子を酵素という精密な道具で組み立てます。
酵素そのものが立体的な形を持っているので、作られる分子も、右手型なら右手型だけへと、きれいに揃います。
ですから、生き物が作った天然由来の成分は、体が使える活性型の一方に偏っていることが多いのです。
生命は、何億年もかけて、この「向き」を選び分ける流儀を貫いてきました。
ところが、人の手で一から化学合成すると、事情が変わります。
ふつうの化学反応には、右手型と左手型を選り好みする理由がありません。
結果として、両者が半々に近い割合で出来てしまう。
この左右が混ざった状態を、ラセミ体と呼びます。
すると、たとえ表示された総量は同じでも、そのうち体が使える活性型はおよそ半分にとどまり、残りは効かない鏡像体として混じることになります。
働きが薄まったり、不要な型が同居したりするわけです。
ビタミンEが、この構図の分かりやすい例です。
自然に作られたビタミンE(d-α-トコフェロールと呼ばれる型)は体が使いやすい向きに揃っていますが、合成のもの(dl-体)は複数の向きの混合になり、同じ量を摂っても体内での働きに差が出ることが知られています。
私たちの体をつくるアミノ酸も、そのほとんどが左手型(L型)に統一されていて、生命はこちらを標準として選んでいます。
葉酸も、体が実際に使う形にどれだけ近いかで、扱われ方が変わってきます。
ここは、「天然のほうが理にかなっている」と胸を張って言える、数少ない、けれど本物の領域です。
理由は物語ではなく、機序にあります。
生き物は向きを揃えて作り、化学合成は揃えにくい——ただそれだけの、しかし確かな理由です。
ひとつ補足を添えておきます。
この「向き」の問題は、そもそも左右の型を持たない分子には関係しません。
前の型その一で見たような、鏡像違いを生まない小さな分子であれば、天然でも合成でも同じものになり、この節の話は当てはまらないのです。
つまり、光学異性体を持つかどうかが、「天然が本当に優る成分」と「どちらでも変わらない成分」を分ける境目になっています。
同じ「天然」という言葉でも、当たる場面と外れる場面があるのは、こういうわけです。
型その三:抽出物・複合体——「天然」とは、連れ合いごとのこと
三つめの型は、そもそも単一の分子ではありません。
魚から搾った油、植物から取り出したエキス。
これらは目的の成分ひとつではなく、それと共に育った補因子や、いっしょに働く成分を連れ合いごと抱えています。
自然の中では、成分は単独では存在せず、周囲との関係のなかで働いています。
天然の抽出物は、その関係の一部を、そのまま持ち込んでくるわけです。
合成や単離では、その連れ合いは削ぎ落とされます。
ここに「天然を選ぶ理由」が確かに生まれます。
目的の成分だけを取り出したものより、共存する因子を伴ったもののほうが、体の中で自然に近い振る舞いをすることがあるからです。
ただし、公平に見れば、連れ合いのすべてが善いわけではありません。
共存物のなかには、不要なもの、ときに好ましくないものも混じります。
「まるごと」は豊かさであると同時に、選り分けられていない、ということでもあります。
ここは天然の長所と短所が、同じ一枚のコインの表と裏になっている場所です。
「天然=安全」という思い込みを、いったん外す
そして、いちばん手放しておきたいのが、この一点です。
天然であることは、安全であることを意味しません。
天然の抽出には、自然そのもののばらつきが、そのままついてきます。
海産物なら海の重金属を、植物なら畑ごとの差を、動物由来なら動物由来ゆえのリスクを——たとえば異なる種のあいだで伝わりうる病原のような懸念を——持ち込むことがあります。
収穫のロットごとに中身が揺れるのも、自然であるがゆえです。
自然は、私たちのために品質を一定に保ってはくれません。
一方、工程が管理された高い品質の合成は、むしろ安定して純度が高いことが少なくありません。
過去には、合成の経路で生じるごく微量の副産物が問題視された例もありました。
けれど食品として扱われる品質のものでは、そうした副産物は精製の段階で管理されます。
裏を返せば、合成にも「どう精製されたか」という品質の幅があるということです。
ここから見えてくるのは、ひとつの落ち着いた結論です。
安全性は、「天然か合成か」という二択では決まりません。
どう作られ、どう精製され、どう管理されたか——そのプロセスで決まるのです。
ラベルの二文字は、そこまでは教えてくれません。
ラベルの二分法より、三つの問い
こうして分子の側から眺めると、「天然」対「合成」という分け方は、実は問いの立て方が少し粗いことが分かります。
同じ「天然」という言葉が、型その一では意味を持たず、型その二では正しく、型その三では長所と短所を同時に指している。
ひとつの言葉が、これだけ違う中身を覆い隠しているのです。
英語で natural という言葉は、ラテン語の nasci、「生まれる」に由来します。
もともとは「生まれ持った」「そのものの本来の性質」を指す言葉でした。
natural とは、産地の物語のことではなく、そのものが本来どう在るか、という問いだったのですね。
だとすれば、私たちが本当に確かめたいのも、キャッチコピーではなく、その成分の「生まれ持った姿」——つまり分子そのものの正体のはずです。
ラベルの二文字の代わりに、手元に三つの問いを持っておくと、迷いが減ります。
その分子は何か。
どう作られたか。
何が一緒に混ざっているか。
この三つを当てるだけで、「天然だから」の一言では見えなかった中身が、輪郭を持ちはじめます。
そのうえで、もうひとつだけ、自分に確かめておきたいことがあります。
自分がいま天然を選ぼうとしているのは、働きのためなのか、それとも物語や安心感のためなのか。
どちらも、人が何かを選ぶ立派な理由です。
ただ、この二つを混ぜたまま選ぶと、期待と中身がずれてしまう。
分けて考えられれば、物語は物語として楽しみ、働きは働きとして確かめられます。
自然には、人の手ではまだ再現しきれない、みごとな設計が宿っています。
その設計への敬意は、手放す必要はありません。
同時に、その敬意を、分子を見きわめる科学的な誠実さと、両手に持つことができます。
この二つは、対立しないのです。
天然という言葉に安心を委ねてしまうのでも、頭から疑ってかかるのでもなく、一つひとつの成分に「あなたは、どの型ですか」と尋ねられる目。
それを持てたなら、裏面のラベルは、もう私たちを振り回すものではなく、こちらから読み解く一枚の資料に変わります。
※本記事は一般的な健康情報であり、診断・治療を目的としたものではありません。特定の商品を推奨・保証するものでもありません。