学校の生物で、こう習った方は多いはずです。
「ブドウ糖1分子から、ATPは38個」。
ところが、この数字は、近年になって下方修正されました。
いまの研究が示すのは、「およそ30〜32個」です。
日本の教科書でも、書き換えははじまっています。
数研出版はすでに「32個」へ改めました。
ただし、多くの教科書は、いまも「38」のまま——移行の途中です。
少なく見積もれば、38から、およそ30へ。
8個ぶん、減っているのです。
では、質問です。
私たちの体は、昔より効率が悪くなったのでしょうか。
——いいえ。減ったのは体の性能ではなく、私たちの「数え方」のほうでした。
そして、この「数え直し」をたどっていくと、最後に、少し意外な場所にたどり着きます。
消えたはずのエネルギーの一部が、いまも、あなたの体を温めている——という場所です。
1.「38個」は、切り上げた数字だった
まず、「38個」がどこから来たのかを見てみます。
ATPは、ミトコンドリアの中で、NADHやFADH₂という「電子の運び屋」から作られます。
かつての教科書は、この計算をとても「きりよく」していました——NADH 1個からATP 3個、FADH₂ 1個からATP 2個、と。
整数で、覚えやすい。試験にも出しやすい。
でも、この「3」や「2」は、実際に測った値ではありませんでした。
仕組みから見積もった、理論上のきりのいい数字だったのです。
やがて、実際に近い値が分かってくると、数字は端数を持ちはじめました。
NADHからできるATPは、およそ2.5個。FADH₂からは、およそ1.5個。
理由は、ATPを作る仕組みそのものにあります。
ミトコンドリアは、水素イオン(プロトン)を膜の外へ汲み出し、その「戻る勢い」でATPを作ります。
ダムに水を貯めて、水車を回すようなものです。
ところが、水車を一回転させるのに必要なプロトンの数と、汲み出しにかかったプロトンの数を、正確に割り算すると——答えは、きれいな整数になりませんでした。
つまり「3」と「2」は、端数を切り上げて、丸めた数字だったのです。
測り直したら、切り上げていたぶんが消えた。
(ちなみに、かつての「38」も、細胞の場所によっては「36」でした——プロトンの運び方が違うのです。ここでは分かりやすさのために、38と、およそ30で話を進めます。)
「38個」から「およそ30個」への差は、そのほとんどが、この「数え直し」で説明がつきます。
体は、何も変わっていません。私たちが、正直に数えはじめただけです。
2. なぜ「ぴったり30」ではなく「およそ30」なのか
ただ、ここで一つ、引っかかることがあります。
なぜ新しい数字は、「30個」と言い切らず、「およそ30個」と、幅を持たせて書かれているのでしょうか。
理由は、貯めたプロトンが、全部はATPにならないからです。
汲み出したプロトンは、全部が水車(ATP合成酵素)を通るわけではありません。
一部は、水車を通らずに、膜のすきまから漏れて戻ってしまう。
これを「プロトン漏れ」といいます。
漏れる量は、その日の状態や組織によっても変わるので、収量はぴったりとは決まらず、「およそ」としか言えないのです。
では、漏れたエネルギーは、どこへ消えるのか。
——熱になります。
これは、失敗ではありません。
私たちの体温の一部は、この「漏れ」が作り出しています。
研究者の推計では、安静にしているときに使うエネルギーの2割ほどが、この漏れに充てられているといいます。
あなたが、いま、体を温かく保っていられるのは、ミトコンドリアが「わざと少し漏らしている」からでもあるのです。
しかも、この漏れには、もう一つの顔があります。
プロトンを貯めすぎると、電子を運ぶラインが渋滞し、活性酸素(ROS)——細胞を傷つける不安定な分子——が生まれやすくなります。
少し漏らして圧を抜くことは、この活性酸素の発生を抑える「安全弁」にもなっています。
「およそ」という、たった三文字のあいまいさ。
その裏には、体温と、細胞の安全という、二つの仕事が隠れていました。
3. そもそも、体は「効率100%」を目指していない
こうして並べてみると、「38個」という数字は、二重に理想化されていたことがわかります。
一つは、割り切れない現実を、整数に丸めていたこと。
もう一つは、エネルギーが全部ATPになる、という前提で数えていたこと。
でも、実際の体は、エネルギーを一滴残らずATPに変えようとはしていません。
わざと漏らし、わざと熱にし、わざと少しだけ効率を落としている。
なぜでしょうか。
効率を極限まで上げた状態——プロトンを一つも漏らさず、すべてATPに回す状態——は、むしろ危険だからです。
膜にかかる圧が上がりすぎ、活性酸素があふれ、細胞そのものを傷つけます。
「効率100%」は、機械としては優秀でも、生き物としては、もろいのです。
だから体は、あえて「およそ30個」で止めています。
残りは、体温と、安全のために回す。
これは、性能の低さではなく、選ばれた設計です。
最後に、もう一つ。
「ATPは38個」。
私たちの多くが、これを「動かしようのない事実」として暗記しました。
テストで書けば、丸がもらえる数字として。
その数字が、書き換えられた。
とはいえ、体が変わったわけではありません。
昔から、同じように動いていた。
変わったのは、それを測る私たちの精度と、正直さのほうです。
きりのいい数字は、たいてい、どこかで現実を丸めています。
そして、丸めをほどいた先に、体温や、安全弁といった、もっと面白い仕組みが隠れていることがあります。
「38個」が「およそ30個」になった話は、数字が小さくなった話ではありません。
数えられなかったものが、見えるようになった話です。
消えた8個のATPは、どこへも行っていませんでした。
大半は、最初から、なかった。
そして残りは、いまも、あなたを温めています。
出典
Hinkle PC. “P/O ratios of mitochondrial oxidative phosphorylation.” Biochimica et Biophysica Acta (BBA) – Bioenergetics. 2005;1706(1-2):1-11.
Brand MD, Nicholls DG. “Assessing mitochondrial dysfunction in cells.” Biochemical Journal. 2011;435(2):297-312.