空には、はじまりの線がない

前回、月を読む二人の話をしました。

受け継がれた暦を信じる僧侶と、本物の月を指差す天文学者。

二人は同じ月について、ちがう宿を語っていました。

では、僧侶に背を向けて、天文学者にすべてを任せればいいのでしょうか。

「暦ではなく、実際の空を見よう」と。そうすれば、宿はひとつに定まるはずだ——と。

ところが、ここからが本当におもしろいところです。

同じ生まれた日を、どちらも「実際の月の位置」で計算するはずの暦に当てはめてみる。

それでも、宿が割れることがあるのです。

二人とも、まちがいなく本物の空を見ている。

それなのに、答えがちがう。

なぜでしょうか。

天文学者は、一人ではなかったからです。

望遠鏡を手にした者たちは、ひとつの群れではありませんでした。

同じ月を見上げながら、三つのことをめぐって、たがいに刀を抜きあっている。

その喧嘩の話をする前に、ひとつ思い出してほしい言葉があります。

英語の moon(月)、month(月=ひと月)、measure(測る)。

この三つは、どれも「測る」を意味する同じ古い語根にさかのぼります。

月は、人類が最初に手にした「ものさし」だったのですね。

満ち欠けを数えて、人は日を、月を、季節を測ってきた。

その最初のものさしを、今度は私たちが測り返そうとしています。

三つの喧嘩は、すべてここから始まります。

第一の剣――どこから始めるか

月の通り道は、空をひとめぐりする輪です。

輪には、はじまりがありません。

陸上競技のトラックを思い浮かべてください。

あれにスタートラインが引けるのは、誰かが白い線を引いたからです。

引かなければ、ただの輪っかで、どこが起点かわからない。

空も同じで、星々のあいだに「ここが宿の一番目」と書かれた印など、どこにもないのです。

だから天文学者たちは、それぞれ自分の手で、空に杭を打ちました。

「ここを起点とする」と。

ところが、打った場所が、人によってほんの少しずつちがうのですね。

基準を決めた人の名前で呼ばれる、いくつもの流派が生まれたのは、そのためです。

そして、起点を少し動かせば、二十七のすべての部屋が、まるごとずれます。

月の測り方は完璧でも、ものさしを当てる「ゼロ」の場所で、宿は変わってしまうのです。

第二の剣――きれいな部屋か、本当の部屋か

次の喧嘩は、部屋の仕切り方です。

一人は言います。「輪を二十七等分しよう。どの宿も同じ幅。これがいちばん整っている」。

もう一人は首を振ります。「いや、本物の星を見ろ。星はそんなに行儀よく並んでいない。ぎゅっと寄り集まったところもあれば、ぽつんと離れたところもある。宿の幅は、星のあるとおりに、広い宿も狭い宿もあっていい」。

きれいだけれど人の都合で割った部屋か。

でこぼこだけれど本物の星に正直な部屋か。

同じ空を、片方は定規で、片方は星あかりで仕切ろうとしています。

第三の剣――ひとつ、多い

そして、本物の星に正直であろうとした人は、最後に困った問題にぶつかります。

実際の星のまとまりを数えると、二十七ではなく、二十八あるのです。

けれど、宿は二十七でなければなりません。

月が空をひとめぐりするのに、二十七夜あまり。ひと晩にひとつずつ泊まっていけるように、宿はずっと二十七と数えられてきました。

月の旅路にぴたりと合わせた、いわば神聖な数です。

二十七でなければならない。

けれど、星は二十八ある。

どうするか。

彼らは、ひとつの宿(牛宿)を、そっとたたんで消しました。

数を合わせるために、まるごとひとつの宿を、地図から拭い去ったのです。

月は、嘘をつかない。けれど、語らない

ここまで来て、ひとつ気づくことがあります。

僧侶を退けて、「事実を見よう、本物の空を見よう」と決めた。

それなのに、その本物の空は、ひとつの答えをくれなかった。

どこを起点にするか。等しく割るか、星に従うか。二十七にするか、二十八をどうたたむか。

空を読むためには、結局、人がいくつもの決断をしなければならなかったのです。

いや、人の決断は、もっと根深いところにあります。

彼らが頼みにする「本物の月」という言葉さえ、はじめから本物だったわけではありません。

最初の天文学者たちは、計算が楽だからと、速さをならした「平均の月」を使っていた。

のちに誰かが「実際の月は、急ぐ夜も遅れる夜もある。その本物を使え」と言い張った。

いまの「本物」は、その訂正の上にようやく立っているのです。

月は、嘘をつきません。

けれど、月は何も語らないのです。

「私はこの宿にいる」とは、月自身は一度も言わない。

それを言うのは、いつも、ものさしを当てる人間のほうです。

前回、暦の宿(受け継いだ物語の私)と、空の宿(ありのままの事実の私)のあいだに、あなたは立っている、と書きました。

今回わかるのは、その「事実の私」さえ、生のままでは手に入らないということ。

事実を読むには、必ず誰かの引いた線、誰かの打った杭、誰かのたたんだ一室を通ります。

あなたを測って「これがあなたです」と差し出される数字も、きっと同じです。

どんな値も、誰かが選んだ目盛りを通って出てきます。

どこにも、何の決断もいらない「ただの真実」は、落ちていないのですね。

だから今夜、月を見上げて、その光に手をかざしたとき、手のひらに触れるのは、答えではありません。

どこに線を引こうか、と迷っている、あなた自身の指先です。

人類は、いちばん古いものさしを空に見つけました。

そして今も、それをどう握るかを決めかねています。

けれど、それでいいのだと思います。

ひとつの答えに決めてしまえば、ほかの空の見方は、そっと閉じてしまいます。

決めかねるその手つきの中にこそ、空を見上げてきた数千年が、まだ生きているのです。

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