がん研究の歴史は、長いあいだ「壊れた遺伝子を探す」歴史でした。
どの遺伝子に傷がつくと、細胞が暴走をはじめるのか。
その一点を突きとめ、そこを叩く薬をつくる。
筋の通った戦略で、医療も創薬も、長くこの考えに賭けてきました。
ところが、2024年に報告された一つの実験は、その前提の根っこに触れています。
遺伝子の配列を一文字も変えないまま、腫瘍がはじまったのです。
「傷ついた遺伝子」という物語
体細胞突然変異説(SMT)という考え方があります。
発がん物質が細胞のDNAを傷つけ、その傷が修復を上回って積み重なり、増殖を止められなくなった細胞が、がんになる。
2000年に整理された「がんの特徴(Hallmarks of Cancer)」も、この筋の上に立っています。1
アクセルが踏まれたまま固定され、ブレーキが効かず、死ぬはずの細胞が死なない。
分かりやすく、多くの場面で正しい物語です。
けれど、この物語だけでは説明のつかないことが、ずっと残っていました。
これだけ変異を追いかけても、がんは世の中からなくなりません。
遺伝子は、消されずに抑えられている
ここで、時間の尺度を大きく変えてみます。
私たちの遺伝子には、40億年の生命の歴史が積み重なっています。
単細胞として生きていた時代のプログラムは、多細胞になったときに消されたのではなく、上に新しいプログラムが書き足されただけでした。
単細胞のふるまい ―― 際限なく増える、まわりを押しのけて競争する、環境が変われば自分の性質さえ変える。
これは、がん細胞のふるまいと、そっくり重なります。
際限のない増殖、まわりの組織への侵入、生き延びるための変わり身 ―― がん細胞がしていることは、単細胞が生きぬくためにしてきたことと、ほとんど同じなのです。
その古いプログラムは、今も私たちの一つひとつの細胞の中に、畳まれたまま残っています。
多細胞という秩序が、それを上から抑えつけているだけ。
抑えが外れれば、単細胞の性質はよみがえります。
つまり、がんとは、細胞が単細胞の時代へ先祖返りすること ―― そう見る目があります。2
どこかから来た新しい異物ではなく、ずっと抑えられていた古い自分が、もう一度立ち上がる現象として。
抑えていた手の、名前
その「抑え」に、名前がつきました。
ポリコームと呼ばれる仕組みです。
発生の途中で、使ってはいけない遺伝子に蓋をし、その蓋を細胞が分裂しても保ち続ける。
古いプログラムを黙らせておく手の、正体のひとつです。
ショウジョウバエで、この手を一時的にゆるめる実験が行われました。3
遺伝子の配列には、いっさい傷をつけていません。
ただ、蓋をする力を、短いあいだ弱めた。
それだけで、腫瘍がはじまりました。
変異ではなく、抑えを外すこと。
それが引き金になったのです。
「抑えが外れれば、古い性質がよみがえる」という見方が、実験室で現実に起きた瞬間でした。
この結果をまとめた論文は2025年に発表され、だれでも読めるかたちで公開されています。
そして、手を戻しても
物語には、続きがあります。
ゆるめた蓋を、元に戻してみる。
抑える力が回復すれば、細胞も元のふるまいに帰る ―― そう思いたくなります。
けれど、戻りませんでした。
一度はじまった腫瘍は、抑えを取り戻したあとも、そのまま残り続けたのです。
きっかけは一時的なものだったのに、状態そのものが、自分で自分を維持しはじめていました。
ここには、希望と警告の両方があります。
がんの入り口が、遺伝子の傷ではなく、抑えの外れ ―― つまり日々の環境で動きうるスイッチだとすれば、そのスイッチを入れさせない生き方に、意味が生まれます。
けれど、いったんスイッチが入ってしまえば、それを戻すだけでは消えません。
はじまりは小さなきっかけでも、はじまってしまえば、もう引き返せない ―― 入りやすさと、抜け出しやすさは、別のことでした。
「なくならない」理由の、もう一つの角度
変異を見つけて、そこを叩く。
その戦い方だけでは、がんがなくならない理由が、少し見えてきます。
もしがんが変異なしでもはじまりうるのなら、傷ついた遺伝子を追い続けるモデルは、いちばん最初のきっかけを取り逃していることになります。
だからこそ、目は入り口の側へ向きます。
何が、その抑えを外すのか。
代謝の乱れ、慢性の炎症、増えすぎた成長の信号。
細胞に「もう多細胞でいなくていい」と告げてしまう条件は、何なのか。
問いは、薬という下流から、暮らしという上流へと移っていきます。
古い設計図は、まだ消えていない
私たちの中には、単細胞だったころの記憶が、そのまま畳まれて残っています。
ふだんはしっかりと抑えられ、多細胞の秩序の下で眠っている。
その抑えを保ち続けることが、思っていた以上に、日々の暮らしそのものなのかもしれません。
40億年前のプログラムは、消えていません。
ただ、抑えられているだけなのです。
出典:Capp J-P, Aliaga B, Pancaldi V. Evidence of Epigenetic Oncogenesis: A Turning Point in Cancer Research. BioEssays, 2025.(オープンアクセス)
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がんを共通の特徴で束ねた古典的な整理:Hanahan D, Weinberg RA. The Hallmarks of Cancer. Cell. 2000;100(1):57–70. ↩
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がんを、抑えられていた単細胞時代のプログラムへの「先祖返り」とみなす仮説:Davies PCW, Lineweaver CH. Cancer tumors as Metazoa 1.0: tapping genes of ancient ancestors. Phys Biol. 2011;8(1):015001.
実際のヒト腫瘍でも、単細胞由来の古い遺伝子が強く発現し、多細胞化とともに現れた遺伝子が抑えられる傾向が報告されています:Trigos AS, Pearson RB, Papenfuss AT, Goode DL. Altered interactions between unicellular and multicellular genes drive hallmarks of transformation in a diverse range of solid tumors. PNAS. 2017;114(24):6406–6411. ↩
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ポリコームを一時的に減らすだけで、遺伝子変異なしに腫瘍が生じ、ポリコームを回復させても元に戻らなかったショウジョウバエの実験:Parreno V, Loubiere V, Schuettengruber B, et al. Transient loss of Polycomb components induces an epigenetic cancer fate. Nature. 2024;629(8012):688–696. ↩